レビューとメモ

見た展示や動画などの一言レビューとかメモとか覚え書きのようなものです。

抽象画について

 

 写実について書いてみたので、抽象画について日頃、思ってる事のメモ書き。

 

 

 抽象表現については、いろいろ歴史的経緯などもあるが、いまアクチュアルに抽象を志向するのは、絵画が結局の所、写実であったとしても、支持体と画材の相性をどうするかとか、それはとりもなおさず良い色を出すにはどうするかとか、全体の構図をどうするかとか、エッジの鋭さをどうするかとか、そういう事の方に気が取られるからであって、結局の所、その作業はその進行時間内において、単一的な所に落とし込まれるのであるし。だったら、最初から整理して作業を単一的、ないし、コントロールしやすい環境下での複雑さの中に落とし込んだ方が良いのではないか?という所が大きいように思う。

 

 

 その究極の形態がクラインブルーであったり、バーネット・ニューマンのzipであったりするのだろうが、個人的には、絵画である以上、zipぐらいはあるべきだろうというのが今の所のある一つの解のような気はしている。今の所と言っても、随分、古いけど。というか、単色だけっていうのは、やっぱり、絵画的問題というよりはパフォーマンス的な要素が強いのかなっていう気はする。何も展示しないとか。まあ、一番感動したニューマンの「アンナの光」は、ほぼ単色じゃねえかって話だけども。

 

 

 とはいえ、今の所、自分が一番好きなのはロスコで、ああいうエモーショナルなものを絵に置き換える作業というのは、やはり、抽象が一番効率的ではないかと思う。そういう作用というのは確実にあって、それはある種、単純な複雑性のようなものだろう。分かりやすく複雑な感情だけが見えるというか。まあ、構図とか、色の妙とかあるから、それが表現されるんだけども。なんだかんだで技術的なものを見せるには抽象の方が良いのではないか?というのもある。

 

 

 こないだのアンセルム・ライラの展覧会で消化器で壁に色を塗っていたが、そういう「今っぽいアクション」自体も抽象でないと表現できない気はする。要は「気分」もある。

 

 

 ただ、アクションペインティング自体はショー的で個人的にあんまり好きではない。単純に絵が良いかどうかの方が重要で、その為に今っぽいアクションがハマるという事は、抽象の場合、結構ある気はする。消化器のは微妙だったけど、「今」の表現方法としては凄いなと思う。残る絵では無いだろうけど。絵でもないけど。かっこいいけども。

 

 

 というわけで、ずっと絵を見ていくと、単純に抽象の方が単純で見やすくなるというのはある。問題がそぎ落とされてるので、分かりやすいというか。特に構図とか、メンタルの部分で直接的にやっているなという感じはする。

 

 

 あと、ポロックのような自分と自然の中間点を探るような事も抽象じゃないと分かりづらい。というか、写実でも、結局はそうなると思うけど、目がモチーフの「意味」に引っ張られるので、それが分かりにくいのではないか。

 

 

 その点、ポロックは分かりやすい。手法自体が中間点を出してるとしか言いようがなく、晩年と全盛期の比較とか、単なる床の染みあととの比較として見ると、絵画がどういうものかを考える意味で興味深い。それでいて、その絵に善し悪しがはっきりある所も興味深い。結局は、自然より技術故の良さなのか、それとも、人間のその時々の状態を反映してるのが、結局、絵画であるという意味での自然なのか。

 

 

 もう一つ言うと、完全な写実は、制作行程のある段階から塗り絵状態になりがちな気がするので、そこの所で、結局はミニマルな作業になっていくのだろうという気はする。構図を決めたら、あとは写真のようにやるというか、マス目すら描く人がいるようなので、それは結構、目に縛られてるのではないかとか。スクリーン投射なぞるのただのトレスじゃんとか。写真が出来てからの絵画というのが正に抽象なのだろうけど、要は写実も補助線引いてるだけなのではないかとか。完全な写実じゃなかったら、それはただ単に形状でエモーショナルな事を表現してるに過ぎないのではないかとか。

 

 

 

 そう考えると、現状では、絵画の問題が抽象に至るのは当然だなという気もするが、これは鑑賞者の問題を結構省いてる気がするので、やはり、その折衷の中にこそ最適解があるのではないか。で、折衷という意味では、今の日本のデジ絵とかは、「良い絵」が気分的に分かりやすくて良いのではないかとも思う。まあ、その文化に浸ってない人には分かりにくいんだろうけど、それは抽象表現主義とかでも同じだと思うし。ある意味では、初音ミクとかも、モチーフデザインを限定する事で問題がミニマルになってる気がする。