レビューとメモ

見た展示や動画などの一言レビューとかメモとか覚え書きのようなものです。

鉄腕アトム「地上最大のロボット」

 

 積読も消化し始めてきたので、ぼちぼち「ヒーローとヴィラン」についての文章もアップしていってみる。


 鉄腕アトムの「地上最大のロボット」を読んだのだけど、結構すごい。


 読んだきっかけは「ヒーローとヴィラン」を考えるにあたって、鉄腕アトムが外せないという事で読み始めているのと日本の有名なヴィランとして「プルートゥ」が思い浮かんできたので、とりあえず、この話から先に読み始めたという感じだ(他はまだあまり読んでないが、ちょっとずつ)。


 「プルートゥ」は浦沢直樹が漫画にもしてるので、それで有名なのもあるが、その前から名前を聞いた事があったと思うので、アトムの中でも有名な敵役なのだろう。但し、鉄腕アトムの中で出てきたのはこのワンエピソードだけっぽい。そして、読んでみると、敵という程、そんなに敵っぽい存在ではない。まあ、ただ、このエピソードはやはり当時は人気があったらしい。単純に敵として強いので印象に残るのだろう。


 内容的には、完全に横山光輝の影響を受けている感じで、話の内容というよりはスタイルがそんな感じがする。といって、ちゃんと比較してないが、地上最大のロボットが1964年の作なので、調べてみると、鉄人28号(1956〜1966)の末期ごろという感じだ。鉄人の影響がかなりあるのだろう。


 自分が読んで想起したのは「マーズ」だったけど、マーズは1976年とかなり後の作品なので、相互に影響もあるのかもしれない。まあ、「マーズ」ぐらいになると表現的に永井豪的なものとか後の表現も入ってくるのかなとは思うが、これもどっちがどっちの影響かというのは、当時をよく知らないので何とも言えない。ちなみに「バビル2世」が1971年。前回、書き忘れたけど、超能力バトルといえば、これだ。あとは「幻魔大戦」。1967年か。意外と早い。このへんは話がずれるので、また後で。


 とりあえず、初期ロボットものの流れを年表で追うと、横山光輝の「ジャイアントロボ」が1967年、手塚の「マグマ大使」が1965年、「魔神ガロン」が1959年なので、鉄人と合わせて、かなり同時代的ではある。ガロンは鉄腕アトムにも1962年に出てきていて、対決といえば、対決だが、読むと単純なバトルでもないので、まだこの頃の漫画はエピソード性が強い。しかし、このへんが現在の日本のバトル漫画の始祖のあたりという事になるだろうか。読み返すと思ってた以上に現在のバトル漫画表現に近い事を当時からやっているんだなーという感じもあるが、その最たるエピソードが「地上最大のロボット」ではないか。


 このエピソードにおいて、とりわけパワーの強弱を馬力で数値化してるのが興味深い。そして、パワーが強くなると髪が光るという表現も同様だ。これは完全にスーパーサイヤ人に引き継がれているが、まあ、これは単純に鳥山明がこのエピソードを参考にしたのだろう。手塚自身はジャンプに代表作がないものの、ジャンプの一番有名な賞が手塚賞である事を考えると、結構、ジャンプは手塚の人気の出た部分を正統的に引き継いでる部分もあるのかと。そして、鉄人と違って、敵側が巨大で味方のサイズは等身大というアトムモデルも、まあ、ジャンプによくありがちな構図ではある。逆に、鉄人はマジンガーZガンダムなど、どちらかというと、アニメ側で後継が発展していったのだろう。「巨大なもの」はマンガよりも映像表現と合っていたのかもしれない。特撮もそうだし。


 面白いのは「地上最大のロボット」自体は、バトル表現に妙があるものの完全にバトル否定のエピソードである事だ。これは結構、日本の漫画の発展において重要な事象なのではないか。多分、このエピソードの人気が出た部分はロボットたちの誰が強いかという単純な部分なのだと思うが、手塚治虫が描きたかったのはそれとは真逆で、ある種のバトル需要否定、あるいは鉄人や鉄腕アトムの受け方自体へのアンチテーゼみたいな部分もあるような気はする。そして、手塚に憧れた日本の漫画家たちもまた概ねこのマインドを受け継いでいて、単純なバトルものを否定しつつ、例えば、「サイボーグ009」のような深みのある漫画を描いていったのではないか。


 実際、この頃、単純なロボットバトルものの漫画が流行っていたかどうだったかというと詳細には調べてないが、しかし、残ってるものを見ると、今ほどはバトルに対して素直では無いのではないか。この頃の手塚治虫も明らかに作家主義的な発言をしており、子供たちの単純な需要に対して抑制的だったのは間違いないだろう。これが良かったのかどうなのか。その後、漫画が、とりわけジャンプ漫画が、ほぼ完全に需要に即して描かれる、あるいは、淘汰されていくようになった現在から見ると結構面白い。手塚の影響で日本の読者の需要そのものに作家性が必要になっていったのではないか? という部分もありつつ。


 需要に関してはおそらく鉄腕アトムは単純なバトルものにした方が受けたのではないかと推測されるが、「地上最大のロボット」自体は話が深く、そういう単純なバトル漫画じゃなかったが故に現在でも語り継がれている面があるのもポイントだろう。という事は、ある種、長期需要に関しては、その時々の需要中心にするよりも作家主義的な方が有効である事を示している面もあるのかもしれない。多分、日本の漫画家の多くは、もしかしたら、アンケート至上主義のジャンプ作家ですら、そこは信じているのではないか。というか、「バクマン」にもそんなようなストーリーがあったわけだが。


 浦沢直樹が着目した部分もその辺であろう。と思って、「PLUTO」も買って読んでみたのだが、ミステリー仕立てでバトル描写は薄く、原作の深みの部分、あるいは、設定の妙を積極的に取り出そうとしているのがよく分かる。まあ、浦沢直樹もまた現在にしては需要に対して抑制的な作家であるし。あからさまにジャンプバトル漫画が好きではないと思われるので、その方向性も当然なのだが、それが原作の本来の魅力を活かしているかというと、また別の評価もあり得るだろう。例えば、絵柄的に言っても、鳥山明の方が正統的に手塚の世に受けた部分を受け継いでいるという評価もあり得るのではないか。個人的にも、「地上最大のロボット」と「PLUTO」は漫画としての魅力が別ものだなーとは思った。まあ、それがリメイクのやり方としては一番成功なんだろうけども。単純に面白かったし。