レビューとメモ

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横山光輝と白土三平

 

 前回からの続きで横山光輝を最近、読み始めた。


 どちらかというと、手塚系の読者で疎かったのだが、色々、過去の作品を読み返したり、手塚の事を考えるにあたって、ふと気づいてみると、現在の水準から言って、現在のバトル漫画のルーツと言えるのは、横山光輝にその最大の部分を求めるのが正しい評価なのではないだろうか。と思っていたら、白土三平の表現も結構凄かった。


 もちろん、手塚の作品にもバトル表現はあるが、手塚がバトル描写を抑制していたのに対して、横山光輝はバトルの駆け引きを真正面から描いて、それを売りにしていたようにも見える。単純にそのバトル表現の水準から見ても、現在にそれなりに近い所があるのではないか。


 しかし、調べてみると、横山光輝白土三平が意外と同時代の作家であるらしい。白土三平は、後に「カムイ伝」を描いて、これまた間接的に日本のバトル漫画に影響を与えているというか、日本の漫画表現のリアリティを上げる事になる重要な作家だが、振り返ると意外と初期の頃のヒット作も多く、漫画黎明期にも重要な役割を果たしているようにも見える。


 というわけで、この問題は、横山光輝白土三平の比較も重要なのかもしれない。

 

 というのも、デビューは横山光輝の方が先だが、「忍者武芸帳」が1959年で「伊賀の影丸」が1961年と考えるとヒット作が横山光輝の方が後である。表現的に見ても、「忍者武芸帳」は大ゴマが多く、効果線の表現が大胆で現在の漫画に近いかなという感じもする。これは横山光輝も似た表現だと思うが、見開きの多い分、白土三平の方が現在に近いのではないか。


 いずれにしても、初期の横山光輝のバトルは、表現的にも白土三平とちょっと似ているが、どちらが先なのかは周囲の作家も含めて、相当振り返って細かく読まないと分からなそうだなとは思った。まあ、当時は漫画の数が少ないので、サンデーとかその辺りを雑誌で一気見すれば分かる話なのかもしれないが。


 でも、横山光輝。デビュー作「音無しの剣(1955)」も時代物なんだよな。まあ、これ自体は手塚的というか、福井英一的というか、そういうタッチなのだが、少し後の「魔剣烈剣(1955)」になると後半から表現が大ゴマ気味でコマ構成とかにも凝り出して動きが大きくなってくるので、この漫画で何か掴んだのかなという感じはする。というか、作者も単行本の後書きでそう書いているが。あと、大袈裟な忍術表現とかも本人曰く横山光輝自身の発想らしい。という意味では、この作品は日本のバトル漫画の歴史にとって、結構な重要作になるのではないか。


 いずれにしても、結局は、そもそも時代劇的な奇想天外話の流れを漫画に持ち込んだのに横山光輝の影響が大きいのは間違いないのだろう。ちなみに、横山、白土、両者とも手塚に影響を受けており、手塚の評価だけは揺るぎない所が手塚治虫が漫画の神様たる所以ではある。そこで漫画史的には手塚と関係の深い石森とかに流れが受け継がれて、そっちがフィーチャーされるのも仕方ないのだろうが、石森も結構、横山光輝の影響を受けているのか、或いは、横山のヒットを受けての企画に乗っかっていたのかなと思わせる所もあるといえば、あるような気もする。「佐武と市捕物控(1966)」で時代劇もやってるし。まあ、そもそも、横山光輝自体、手塚の元アシで初期は手塚との関係が深かったのだろうが。


 しかし、手塚漫画はどこか洋風で石森章太郎もその流れにあるのに対して、横山光輝の表現はアジア的で、より日本に根ざして、実際を真似しやすかった部分もあるのではないか。そう考えると西洋コンプレックスがだんだん抜けてくる現在に向かって、横山光輝の影響が次第に目立ってくる部分もあるのかとは思う。ある種、手塚と横山は別方向の発展の祖とも言えるのでは?


 もちろん、それを言うなら、「赤胴鈴之助(1954)」の福井英一→武内つなよしが横山のルーツだろうという話にもなるのだが。しかし、表現的には、福井英一の時代はまだ戦前の漫画の影響もかなり残っているのかなという気もするので、今からは少し表現が遠いのかなと。もっとも福井英一の場合、「イガグリくん」もスポーツ漫画のルーツで、少年たちの「需要」の発掘に関しては、その先駆けではあると思うが。


 いずれにしても、横山光輝は「鉄人」で日本のロボットもの、「魔法使いサリー」で魔法少女もの、「赤影 (1966)」もおそらく石森の戦隊モノに受け継がれて、日本のアニメ漫画のフォーマットに影響を与えたのは間違いなく、手塚に匹敵する文脈で考えられるべき作家と言っても良いのではないか。そして、同時に白土三平が漫画にある種のリアリティを与えていって、少年漫画の戦いのメソッドが変わっていったのかなというのが妥当な見方な気はする。