レビューとメモ

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善悪の境界線(メモ)


 何度も書いている気がするが、日本の創作におけるヒーローとヴィランの境界線は曖昧なものが多い。これはかなりガンダム史観の影響が大きいのではないかというのが持論だが、根本的には、かつて戦ったアメリカが、戦後、友好国になったという実際の変遷による所も大きいのだろう。


 鉄人28号を改めて読み直して思い出したが、鉄人28号もまた悪役として構想された(フランケンシュタインを下敷きにしてるらしい)ものがヒーローになった物語である。まあ、これも作中、リモコン次第でどうとでもなる設定なのだが、漫画の内容的には、金田少年がはっきりと警察権力側におり、かなり真っ当なヒーロー漫画になってるとは言えるだろう。全部読んでないので、ざっくりとした感想だけど。


 悪役からヒーローにと言えば、日本では、真っ先に「ゴジラ」が思い立つ。


 おそらくゴジラをヒーローにしたというのは、多様な怪獣を出すための方便でもあるとは思うのだが、結局は、需要の問題として、ヒーローを作るとしたら、主役のゴジラしかいなかったという問題も大きいのだろう。

 

 このゴジラがまた悪役として戻ってくるのが84年版ゴジラだが、これが成功したと言えるかどうかは平成ゴジラまで少し間が空く上に平成ゴジラではまたヒーロー回帰するので、評価が難しい所だろう。個人的には、ここで価値転倒を行う事自体がかなり相対化された世界観なのかなと思う所ではあるが、ナウシカAKIRAと同時代の話なので、先鋭的には、80年代初期に相対化が進み、同時代的同傾向はあったのかなと思う所ではある。ガンダムが1979だし。


 考えてみれば、ウルトラマンも最初はウルトラQから始まり、ウルトラマンの企画に移ったわけで、日本では「作者の思惑」はともかく「需要」により本来の悪役が流れでヒーロー然としてくるケースが多いのではないか。仮面ライダーも最初は悪に作られた存在だとすると、分かりやすくヒーロー然としているのはメジャーなところでは戦隊モノぐらいしかパッと思いつかない気もする。あるいは、セーラームーンプリキュアのような女性向けのものに、ややその傾向が強いのかもしれないが。これは手塚や藤子がヒーローに対して、屈折した話を描いていた影響も大きいのかもしれないが、まあ、ヒーロー=アメリカのもの的な所があるだろうから、当時の作家は大体そうだったのかもしれない。


 時代の変遷としても、鉄人の名前はB29が元であるらしいし。ゴジラには核の脅威がチラついていて、その頃の日本の創作は「力」によって生活が脅かされる事がリアルな経験としてあったのだろう。


 これらも時代が経ち、そうした現実の脅威のリアリティが遠ざかっていくに従って、ヒーローが単純に物語の中の存在として需要化されていくのだと思うが、しかし、物語の語り方としてはリアリティを追求していく方向に行ってるので、現実的ではないヒーローは逆に子供っぽくなってリアリティを失って廃れていき、「ヒーローとは?」と問い直すメタ的なリアリティを得て、再び盛り返すというのが大体のヒーローものの流れなのではないか。というか、これはまあ、本家アメリカのマーベルとかバットマンの方がうまくやっているとは思うが。

 

 とりあえず、日本の経緯を大雑把に考えると、仮面ライダーや戦隊モノのようにヒーローが活躍する作品が流行る(石森期)→デビルマンマジンガーのようなダークヒーローが流行る(永井期)→ガンダムのような相対化された戦争のリアリズムに移行する(富野期)という流れが大まかにある気はする。


 アニメで言うと、途中、ガオガイガーとか、Gガンダムとかの原点回帰みたいなものも挟みつつ、日本の創作において、ガンダム以降は、一貫して、この相対化傾向が進んでいると思うのだが、この傾向が一番極まっている作品が0年代の代表作「ワンピース」だとも言えるだろう。この辺は、「ハンタ」も「ナルト」も「ブリーチ」も同傾向にあるので、漫画の世界においても一気に「相対的な価値観の方が」日本のバトル漫画の主流になっていく感じだ。


 もちろん、その前の「リンかけ」から「ドラゴンボール」に至るガンダム史観とは違う(戦争ではない)競技性(善も悪もない)から始まるジャンプ漫画のヒーローの流れもあるわけだけども。(この辺は後で詳細に書きたい)


 この傾向の後に2010年代に入って、「ヒロアカ」と「鬼滅」という「それでも善悪に線を引く」作品が登場する。


 この二作は関係性こそ相対化されているが、善と悪は明確に分かれていて「相手の事情」は汲めども、その境界は容易には跨がせないという格好で物語が進んでいく。

 

 ヒロアカは前世代の作品のせいか、鬼滅より、やや相対化傾向が強いとは思うが、それが逆に鬼滅で示されなかった問題点を炙り出しているようにも感じられ、今後、どの点に至るのかは割と楽しみにしている。まあ、ちょっと難しい問題なので、そこまでスッキリしたオチには至らないんじゃないかとも推測しているけれども。(そもそも死柄木以降も死柄木のような人間が頻繁に出る可能性のある世界観なので、言ってみれば、ヒロアカは軍拡の話を個人に落とし込むとどうなるかという思考実験なのだけど、これは現在の情勢化では割とリアリティがある話のような気がしないでもなく、正に鬼滅以降の話になっている気がする。まあ、ただ、それはただの偶然かなともちょっと思うが)


 もちろん、相対化傾向自体は依然続いていて、「呪術」や「サカモト」「チェンソーマン」などは、相対化された物語とも言えるだろう。

 

 そう考えると、ヒロアカは「ヒーロー」をテーマにしてるので、ヒロアカのような話になるのは必然のような気はするけど、鬼滅はちょっと特殊な感じはするので、それがあそこまで爆発的に需要されたというのは、やはり、時代により、善悪の線引きを明確に引きたいという人々の願望があったのかなーという気がしないでもない。そして、鬼滅のフォロワーっぽい漫画は数あれど、なんかみんな意外とこの構図を引き継いで描いてるものが少ないような気がしないでもないので、そう考えると、作家側が結局、相対的思考が根強いのか、あるいは、この事が受けた要素とは全く関係ないというだけの事なのかもしれない。

 

 一応、鉄人を読んで、なるほどここから始まったのかとふと思ったので、覚書として。