レビューとメモ

見た展示や動画などの一言レビューとかメモとか覚え書きのようなものです。

タカノ綾「すべてが至福の海にとけますように」

 

http://gallery-kaikaikiki.com/

 

 

ようやく見た。じわじわと良かった。 ☆☆☆

 

 

カイカイキキギャラリーにて、タカノ綾、日本では8年ぶりとなる個展が開催中。震災をテーマにした展覧会だそうだが、3月11日に見てきた。

 

その前に、8年前の展覧会、パルコでやった「都会犬」だと思うが、それを偶然にも見ている。

 

その時は、たぶん映画を見る前に時間が空いたので、ふらっと入ったような記憶があるが衝撃を受けた。日本人の展覧会という事では生涯ベスト3に入るような出来というか、今でもその時の記憶を鮮明に思い出せるほど鮮烈な印象がある。

 

それを受けての今回の感想なので、ちょっと思い入れというか、先入観がある。

 

色々思う所あって、感想が長くなりそうだが、そういうのはひとまず割愛して、全体的には、随分、絵が変わったなー。落ち着いてるなーというか、次元の位相の狂うような絵だと思った。例えば、絵が軽いのか深いのかとか。構成がどうなのかとか。絵がデカいので、余計に画面をうろうろする。

 
 
そんな感じで見てるうちに、最初は、キャンバスの絵よりアクリル板やセル画の絵にピンと来ていたのだけど、途中から、やっぱり、キャンバスの方が良いなーと虜になった。
 
 
キャンバスの絵は、マチエール等そんなに凝ってる風でもなく、描写も早そう。基本的には、絵が積極的に深みを排除してるようにも見えるけど、最終的には、絵が深いなーという印象になって、そういうのはディテールとか画題とかだろうなーとは思うけど、そういう事をいちいち捉えてる内に頭がぐるぐるしてしまう。

 

或いは、もっと単純にこの絵は雑なのか丁寧なのか?とか、そのバランス感覚が絶妙で見るポイントがぐるぐると回る所もある。単に、妙なのかもしれない。
 
 
しかし、全体的には自分たちに「近い絵」だと言えるんだろう。マンガ的な絵の延長で落書き的に描ける感じが全体的に漂う。実際に描けるかはともかく、その上で、だからこその「遠さ」が鮮明になる。
 
 
例えば、それは、前に同じ場所で見たアンセルム・ライラとかを思い出しつつ、ああ、あれとは違うなー。これがアートなのかー。自分たちと近いものだなー。デザフェスギャラリーにあってもおかしくなさそうだなー。とはいえ、こんなのあったら、絶対、ビビるだろうなー。こんなの絶対、描けないなー。遠いなー。というような、そんな感想。
 
 

 

そういった全体のバランスがいちいち妙な地点で決まっている感じがする。これはディテールの描写に依る所が大きい気がしないでもないけど、それ自体も単なる「才能」か?とも思わないでもない。単に天才なのかもしれない。

 

 

この感想は、例えば、奈良美智の絵を見た時の感想とは、全然ちがう。しかし、岡崎京子のマンガを読んだときの感想などには、近いのかもしれない。速度感の早さは、結構な重要性な気もするし。そういうのが沸き立たせる部分もあるのではないか。そこに「深み」が加わってきた感じがある。こういうのは、絵をセンスで捉えて、単に「良いなー」ってなってしまう。

 

いずれにせよ、これを見て、やっぱ、絵は良いなー。アートは良いなー。アートが一番「高み」を蓄積する手段としては良いんじゃないか?そんな事も思った。

 

ひとまず、あとは画集が到着してから考えたい。前見た時もそうだったが、見終わっての感想が結局「よく分からない」なので、感想も書きづらい。そんな感じに収束しつつ、でも、結局は、絵に惹かれて行き、そしてまた「次」が見たいと思わされる。そんな絵だった。

 

E-girls「Diamond Only」MV

 

 


E-girls / Diamond Only (Music Video) - YouTube

 

 

 完璧にコマーシャルな作品  ☆☆☆

 

 

 素晴らしすぎる。

 

 

 人の内面をほとんど描く事もなく、ファッションとダンスと軽快な音楽で成り立ってる様式美のような感じでポップ。これだけ高性能なものは久々に見た感じ。

 

 

 Follow me以来、久々にE-girlsでハマったというか、ハマったのが2曲というべきか(candy smileも好きだけど)。

 

 

 途中の揃いの振り付けも良い。フォーメーションダンス的な奴。曲中、あれが素晴らしくアクセントになっていて、女性じゃないのにバッグが欲しくなる。女性じゃないので、買わないけど。

 

 

 フォーメーションダンスといえば、最近はモーニング娘。がしきりに言っているが、モーニング娘。がロック的な衝動を表現する為にフォーメーションダンスを採用してるのであろう事に比べ、E-girlsは完璧に訓練された「エンターテイメント」に徹していて「プロの技」という感じがする。人数の多さをうまく表現に使っていて、見せ方が素晴らしく上手い。

 

 

 今回、曲調もそうだが、冒頭には、制服ダンスもあり、割と過去の必勝パターンを踏襲してきた感じ。これはガチで凄いな。

 

 


E-girls / 制服ダンス ~Diamond Only~ - YouTube

 

「シャガール 版画の世界」@館林美術館

 

 

http://www.gmat.pref.gunma.jp/

 

 

 流石のクオリティ ☆☆

 

 

 ご近所の館林美術館にシャガールの版画を見に行った。

 

 

 そんなに期待してなかったので、用事のついでにちょいちょいっと行く予定だったけど、結構、ガッツリ見てしまい、流石の出来だった。

 

 

 版画とはいえ、流石の巨匠の作で、自由度の高さを感じさせる描線と、プリントでは全く再現され得ない鮮やかな色彩に、いたく感動した。

 

 

 内容は、館林美術館と群馬県立近代美術館の所蔵する版画をずらりと並べた展覧会で、点数も多く、充実の内容といえば、充実の内容だし。本画が無いので物足りないといえば、物足りないものだ。

 

 

 全体的には、バルビエ×ラブルールの流れに似た軽くて見応えのある展覧会といった作りで、前後期で展示替えもあるらしいが、500円で安いので、両方見てもコストパフォーマンスも良い感じ(ご近所で交通費かからなければだけど。。。)

 

 

 シャガールに関しては、青森県立美術館でかなりガッツリした展覧会を見た気がするが、記憶にあるのが舞台衣装と舞台背景のどでかい絵ぐらいで、あとはどういう感想だったかサッパリ覚えてない。しかし、今回見たら、強く影響を受けそうな作風だなと思った。(もっとも、その時は自分の中で歴代ナンバーワンの展覧会「AtoZ展」のついでだったので、そのせいで印象が薄いのもあるかもしれないが)

 

 

 もともと、作家自体に関しては、周りに好きな人もいて、結構、意識してる作家だったりする部分はあるが、なんというか「自由度」みたいな事を考える時に参考になる作家だなーと思う。

 

 

 版画というのも、イラストレーション的で(というか、イラストレーションなので)、むしろ、見て分かりやすく楽しい部分もあったかも。こういう方が個人的好みには合致してたのかもしれない(そういえば、若き日にゴヤの版画見て、強く影響を受けた事を思い出した)。

 

 

 また、版画の出来は、シリーズによって、出来の差が激しく、そのあたりも面白かった。何が良い絵で、何が悪いのか?そういう事も考えながら見ると面白い。

 

 

 やはり、歴史的巨匠の作品はナンダカンダ言っても、凄いなと思わされた展覧会だった。いや、ダメな版画シリーズだけだったら、ダメなんだろうけど。。。

 

 

アンディ・ウォーホール展

 

 

 

http://www.mori.art.museum/contents/andy_warhol/ 

 

 

 

作品がすごく良かった  ☆☆☆

 

 

 

グルスキー展を見に行きながら、隣りのポップアート展をどスルーしたほど、アメリカンポップアートにはピンと来ない人間だったのだが、アートの本などを見てるうちに、うわ!やっぱ、見ておけばよかった!と思う事も多かったので、今回、見てみた。

 

 

 

アンディ・ウォーホールというと、割とアートの中では一番ポップカルチャーに隣接した所で作品を作っていた人というようなイメージが強かったが、今回の展覧会を見たら、割と一回性の強い(再現性の低そうな)作品というか、強いオリジナリティのある作品が結構あって驚いた。

 

 

 

多作故にウォーホールの作品は各所で見る機会が多いが、見ているのは版画が多くて、そうじゃないものはそんなに見てなかったんだなーと今更ながらに気づいた。あと、もともと若い頃、ウォーホールのドローイングの本は好きでよく見てた事を思い出した。(あれと、ウォーホールの芸能的なふるまいがあんまり頭の中で直結してなかったかも)

 

 

 

今回、見た中で一番凄いと思ったのは「死と惨事」のシリーズだったが、やはり、オークションで高額なものは一回性が強い感じというか、オリジナリティの強いものが多くて、個人的好みと合致するのかなと思った。

 

 

キャンベルスープの一連の作品も、やはり素晴らしい。キャンベルスープのデザイン自体も素晴らしいが、シルクの出来も素晴らしいと思ったし。単純なシルクじゃない作品も良かったし。既製品を作品化する仕方が素晴らしいし。何より見せ方が凄い。

 

 

全般的に色の使い方が良くて、センスが凄いんだろうなと思うが、80年代の作品は個人的には、そんなに好きじゃないのが多かったかも。玩具の絵画シリーズとかは、すごい良かったけど。

 

 

あと、単純にウォーホールのイラストレーションに与えた影響も絶大なものがあるなーというのは改めて思った。ドローイングだけじゃなく、シルクの手法とかも。

 

 

ビデオとか、社交的な部分については、よく分からないというか、最近、あのへんのロックがあんまり好きじゃないので苦手な感じはあったかも(いや、ヴェルベッド・アンダーグラウンドのCD、若い時に買って持ってますが)。結構、じっくり見たけど。

 

 

写真は、全般的に割と好きだった。ウォーホール自身の写真に関しても、若い頃の写真見ると、ちょっと冴えない感じだったので、そういう人がああいう風になるんだなーと思うと、なんか面白いものを感じる。

 

 

全体的に見てて、かなり、デュシャンの流れに沿ってる気はしたが、それ以前に単純に作品のクオリティが高かったので、それはすごい意外だった。いままで随分、ウォーホールの作品見てたような気がしたが、ろくなの見てなかったというか、よくよく考えるとスープ缶と花とモンローばっかだった気がする・・・(あんまり記憶が無いけど)。

 

 

というわけで、作品は本当に良かったんだけど、ただ、トータルとして好きな作家か?と言われると、やっぱり、苦手な所は多かったかも。

 

 

具体的に何処が?というと、たぶん全体が一点に収束していかないというか、求道的でなく、観客を煙に巻いてる所だと思うんだけど、しかし、その煙に巻き方は求道的で一点に収束している感じもするので、そのへんのややこしさがちょっと苦手なのかも(たぶん途中から本人は本当に表層的にやってるのに、そうであっても現れる表層的じゃなさというか、本人である事で統合される求道性みたいなもの。個性の強さ?の手法、或いは、結果、或いは、効果により、本人が置いてかれそうな周辺状況の設定の出来すぎな感じが苦手なのかも。デュシャンは割としっくりくるので何でだろう?と思うと、やっぱり、デュシャンは本人に収束していかないで本当に煙に巻いてるからだろうなーとは思う)。

 

 

あと、ぜんぜん関係ないけど、ウォーホール展のあとに2作だけ見れるガブリエル・アセベド・ベラルデという方の映像作品が無茶苦茶よくてビビった。

 

Flower「白雪姫」

 


Flower 『白雪姫』 - YouTube

 

 

最近ハマっている  ☆☆☆

 

 

ハマっているので、☆多めで。

 

 

初聴きの印象は、そんなに良かったわけではないけど、聴いてるとかなり感情に訴えかける所がある。

 

 

もともとE-girlsも鷲尾さんの唄が好きでハマった所があるんだけど、鷲尾さんの唄はFlowerの方で、より活きてるかなとは思う。人数が少ないので、当たり前といえば、当たり前だけど。

 

 

内容的にも、ちょっと情念系な所があるというか、八代亜紀とか、石川さゆりとか、あのへんの歌謡曲も好きなのだけど、そういう所から連綿と連なる「日本的情緒」みたいなものを感じられて、それとメンバーの唄のマッチングが良い。「白雪姫」という海外の童話のタイトルではあるけども、儚い感じを力強く表現していて、その力み具合にグッと来る感じだ。

 

 

ダンス楽曲で情念系というと、モーニング娘。のプラチナ期もそんな感じで非常に好きだったんだけど、ああいった表現を更新していってる面もあるかも。

 

 

何にしても、E-girlsのイメージが一つ出来る事によって、各グループの個性がだんだん際立つような結果になってきてるのかなとも思う。「ごめんなさいのKissing You」のMVを見ると意図的にそういう方向性に持って行ってると思うけど。

 

 

 

北川フラム「アートの地殻変動」

 

 

アートの地殻変動 大転換期、日本の「美術・文化・社会」 北川フラム インタビュー集 (BT BOOKS)

アートの地殻変動 大転換期、日本の「美術・文化・社会」 北川フラム インタビュー集 (BT BOOKS)

 

 

 

 

 思う所がありすぎた ☆☆☆

 

 

 自分も地方でまちづくりっぽい活動に参加してる事などもあり、いろいろ参考になったというより、読むと色々と感情が動く。

 

 

 個人的に、こうした活動を見ていて思うのは、大まかに言うと、こうしたアートフェス的なもののファンが増えるに従って、本格的なARTが逆に育たなくなるのでは?という事だ。

 

 

 現に、イベントから作家側のスターが出ている感じがあんまり無いし。外からスター作家を呼んできてるイメージの方が強い。それなら美術館の方がよくない?という疑問。たぶん美術館の方が本当は良いのではないか(スケールの大きい美術館が無いからこういうやり方でやっているような)。

 

 

 こうした問題は、この本の連載の最後の対談が、村上隆さんであった事からも割と本で言ってる疑問でもあるのかなと思わなくもないが、こういうアートフェスは、正直に言うと、ゆるキャラB級グルメ同様、「元々劣って見えるもの」に地域を絡ませて愛着を作って行く手法に感じなくもない。ある意味では、それが現代的でハマったのだろうけど。

 

 

 もう一つ言うと、こういうのは、最終的な目標が地域活性というか、経済を含む人間の活性を目指している所があるので、そもそもが作品にあんまり意味がないと感じる。「量」と「場」の相関の方が問題だろう。

 

 

 それは、作品の見方にも関係していて、見る側とすると、フィールドが広いと効率的に作品を見られないので、結局、肉体の疲労の方が大きくなって、自分の身体をふくむ自然の摂理の方が大きく感じるようになる。作品を点在させる事によって「量」ないし「過剰性」を演出するというか、滞在時間を延ばし、それで地元を潤わせようとしてる感じも無くもなく。参加型インスタレーションやワークショップなど正に。

 

 

 「大地の芸術祭」なのだから、それはそれで良いのだとも思うが、それは「人間の営為」を記録する美術的な方向性とちょっと違うのではないか?と思わなくもない。まあ、全体が作品だとすれば、それを記録すれば良いのだと思わなくもないが。

 

 

 無論、これが悪いと言えないのは、そもそも、この国では美術というか、欧米的な意味でのARTに文化的権威を与えてないという所もあるのだろう。所詮、外来文化なので、ARTやりたかったら、アメリカに行け!という話の中で日本のアーティストの力を使える土着的に足下を固めた別枠が新たに出てきたという事なのか否か。まだ結論は出ないで進行形の話だろうが、地域やイベント自体でなく、作家がどういう風になっていくか気になる。マルチネ(ネットレーベル)的な事は起こっているのだろうか?

 

 

(ちなみに、大地の芸術祭というイベント自体は、見た結果、凄いなと思いました。マジでこんなのよく出来たなーというレベル)

 

 という話と遠いような気もするけど、対談では、平良敬一さんと辻井喬さんの話が面白かった。気づけば、どちらも都市計画的な話だ。

 

 

抽象画について

 

 写実について書いてみたので、抽象画について日頃、思ってる事のメモ書き。

 

 

 抽象表現については、いろいろ歴史的経緯などもあるが、いまアクチュアルに抽象を志向するのは、絵画が結局の所、写実であったとしても、支持体と画材の相性をどうするかとか、それはとりもなおさず良い色を出すにはどうするかとか、全体の構図をどうするかとか、エッジの鋭さをどうするかとか、そういう事の方に気が取られるからであって、結局の所、その作業はその進行時間内において、単一的な所に落とし込まれるのであるし。だったら、最初から整理して作業を単一的、ないし、コントロールしやすい環境下での複雑さの中に落とし込んだ方が良いのではないか?という所が大きいように思う。

 

 

 その究極の形態がクラインブルーであったり、バーネット・ニューマンのzipであったりするのだろうが、個人的には、絵画である以上、zipぐらいはあるべきだろうというのが今の所のある一つの解のような気はしている。今の所と言っても、随分、古いけど。というか、単色だけっていうのは、やっぱり、絵画的問題というよりはパフォーマンス的な要素が強いのかなっていう気はする。何も展示しないとか。まあ、一番感動したニューマンの「アンナの光」は、ほぼ単色じゃねえかって話だけども。

 

 

 とはいえ、今の所、自分が一番好きなのはロスコで、ああいうエモーショナルなものを絵に置き換える作業というのは、やはり、抽象が一番効率的ではないかと思う。そういう作用というのは確実にあって、それはある種、単純な複雑性のようなものだろう。分かりやすく複雑な感情だけが見えるというか。まあ、構図とか、色の妙とかあるから、それが表現されるんだけども。なんだかんだで技術的なものを見せるには抽象の方が良いのではないか?というのもある。

 

 

 こないだのアンセルム・ライラの展覧会で消化器で壁に色を塗っていたが、そういう「今っぽいアクション」自体も抽象でないと表現できない気はする。要は「気分」もある。

 

 

 ただ、アクションペインティング自体はショー的で個人的にあんまり好きではない。単純に絵が良いかどうかの方が重要で、その為に今っぽいアクションがハマるという事は、抽象の場合、結構ある気はする。消化器のは微妙だったけど、「今」の表現方法としては凄いなと思う。残る絵では無いだろうけど。絵でもないけど。かっこいいけども。

 

 

 というわけで、ずっと絵を見ていくと、単純に抽象の方が単純で見やすくなるというのはある。問題がそぎ落とされてるので、分かりやすいというか。特に構図とか、メンタルの部分で直接的にやっているなという感じはする。

 

 

 あと、ポロックのような自分と自然の中間点を探るような事も抽象じゃないと分かりづらい。というか、写実でも、結局はそうなると思うけど、目がモチーフの「意味」に引っ張られるので、それが分かりにくいのではないか。

 

 

 その点、ポロックは分かりやすい。手法自体が中間点を出してるとしか言いようがなく、晩年と全盛期の比較とか、単なる床の染みあととの比較として見ると、絵画がどういうものかを考える意味で興味深い。それでいて、その絵に善し悪しがはっきりある所も興味深い。結局は、自然より技術故の良さなのか、それとも、人間のその時々の状態を反映してるのが、結局、絵画であるという意味での自然なのか。

 

 

 もう一つ言うと、完全な写実は、制作行程のある段階から塗り絵状態になりがちな気がするので、そこの所で、結局はミニマルな作業になっていくのだろうという気はする。構図を決めたら、あとは写真のようにやるというか、マス目すら描く人がいるようなので、それは結構、目に縛られてるのではないかとか。スクリーン投射なぞるのただのトレスじゃんとか。写真が出来てからの絵画というのが正に抽象なのだろうけど、要は写実も補助線引いてるだけなのではないかとか。完全な写実じゃなかったら、それはただ単に形状でエモーショナルな事を表現してるに過ぎないのではないかとか。

 

 

 

 そう考えると、現状では、絵画の問題が抽象に至るのは当然だなという気もするが、これは鑑賞者の問題を結構省いてる気がするので、やはり、その折衷の中にこそ最適解があるのではないか。で、折衷という意味では、今の日本のデジ絵とかは、「良い絵」が気分的に分かりやすくて良いのではないかとも思う。まあ、その文化に浸ってない人には分かりにくいんだろうけど、それは抽象表現主義とかでも同じだと思うし。ある意味では、初音ミクとかも、モチーフデザインを限定する事で問題がミニマルになってる気がする。