レビューとメモ

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ワンピースについてのメモ(の割に長い)

 

 先週もちょっと書いたけど、ヒロアカを通して昨今のヴィランの在り方を考えており、鬼滅と対比して「ヒーローとヴィラン」というタイトルでまとめておこうかと思っている。で、メモ的に土曜日に小出しにアップしてみようかと思っているので、毎週かは不明だけど、気が向いた方は是非。


 と言っても、ヒロアカがまだ終わってないので下準備段階でヒロアカを語るためにヒロアカ以外の漫画の話からまずアップしていこうかと思う。今回は最終章突入前で今最も熱い漫画である「ワンピース」について少し。

 


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 ヒロアカを語るにあたって、絶対に語っておかないといけない存在が同じジャンプのトップ・オブ・トップである「ワンピース」であろう。


 ワンピースは読み口は最初から爽快な王道作品のように感じられるが、主人公が「海賊」という従来であれば、敵方の存在である事から、90年代以降の相対化傾向をかなり反映した作品である。


 そもそもワンピース世界の戦争は基本的には経済戦争モデルであり、グローバルな情報共有がかなり進んでいて、敵との協調でwin-winが成立する相対化された世界でもある。相手が敵になったり味方になったり「絶対悪」は存在せず、ラスボス自体、誰か分からないまま物語が進み、敵方と手を結んだり「利得」ベースで戦いが相対化されているのが特徴だ。(ルフィは若干その構図を否定する存在だが、それでもローやキッドと手を組んでいるし)


 これはヒロアカと鬼滅のような「悪」を描く世界観とは明確に異なる部分であると言えるだろう。そもそもヒロアカと鬼滅は描かれ方として主人公が警察権力(海軍)側であり、ワンピースと逆なのが明確な違いだが、ワンピースのキャラクターの強さが金額で示されるのも(たまたまかもしれないが)かなり経済モデルを反映していると言えなくもない。


 ヒロアカの世界の方が賞金モデルが適用されそうだが、あえてそうしてない=力の行使が管理的であり、この辺はスピンオフの「ヴィジランテ」でも描かれているが、能力があるが故に自警は許されない。しかし、自警こそが自由ではないか?というのはMCUシビルウォーの対立に近いものがある。

 

 いわば、「敵」に対して主観で対応できるのがワンピースだとしたら、主観では対応できないのがヒロアカであり、鬼滅と言えるかもしれない。

 

 では、ワンピースにおいては、その敵がどのように描かれているか?見ていきたい。


 ワンピースにおいて、これが一番明確に描かれたのは、インペルダウン編である。インペルダウンにおいて、看守のマゼランやその部下たちを悪魔的風貌で描く事により、読み口においては善悪の逆転をぼかしているものの話の内容的には「明確に」ルフィ達が「悪」として語られ、世界平和を脅かす存在として描かれている。そして、さらっと流してはいるが、実際にその後、凶悪犯は脱獄し、世界の治安は悪くなっていて、客観的に見ると、ルフィは世の中から悪として見られる方がデフォルトなのだろう(この脱獄劇も直接的には黒ひげの方を悪のようにしてぼかしているが、やってる事は、まあ、同類である)


 要するに、ここでの「悪」はルフィたちなのだが、ここにおいて、ワンピース世界に通奏低音のように流れていた「でも、海賊って悪じゃね?」という事が明確に示され、あれほど「悪」として描かれたクロコダイルも仲間っぽくなる事によって、ルフィたちは「悪でもある」という描写を成立させているのが、この世界の「敵」の描き方の特徴である。


 こうした相対化がワンピースの白眉なところであろう。この点に関しては、かなりアナーキーな存在としてドフラミンゴを配置して強調しているのもうまい所である。


 ちなみにワンピース世界では最終目標が「一番自由な奴が海賊王」と描かれてる事から、かなり明確にアナーキーな世界観が描かれており、警察権力=大人が目の上のタンコブのように描かれるある種の少年マンガの王道=不良漫画的な構造をしているのも特徴的である。


 また、ついでに言うと、バギーは特にインペルダウン編において完全にルフィと対比させられていて、バギーの行動は自分本位だが時流に乗ってすぐ行動を変える結果、多くの仲間が集まっていくが、ルフィは仲間想いで信念があり仲間を見捨てられないが故に、仲間が増え、ある意味それに縛られていくような感じも少しある。(子分盃はそれを逸らす話だが、結果的には仲間想いであるが故に見捨てる事はない=縛られるのではないか。この後の展開にもよるが)


 ここにおいて、ワンピースの主題が「自由」であるとしたら、バギーの方が自由なのでは?というのがこの作品の思想を広くしている所でもあり、相対化されている所ともいえるだろう。


 両者の仲間の集まり方という意味でも対立がある。バギーの方がどちらかというと敗者=名も無い存在を束ね、ルフィの方が強者=名のある存在を束ねているのは示唆的だ。この点において、多くの弱い海賊を仲間にしないルフィに比べて、実は情の薄いバギーの方が結果的に多くの海賊を救っているのではないか?という構図が湧いてくる。

 

 ワンピースは作者がロスジェネ世代で特に初期の方はその影響がちらほら見受けられるが、ルフィが古き良き任侠的な世界観で「濃い」仲間を作っていくのだとしたら、バギーは「薄い」縁者を取り込んで派遣会社をやってるあたり、時代の影響が色濃く出ているとも言えるだろう。バギーは最初からのキャラなので、多分、この対比は最初からの大まかな構想なのではないか。(アルビダが仲間になってるので途中からかもしれない)


 話は逸れたが、インペルダウン編の描写は、この後、ヒロアカで脱獄が絶対悪のように描かれるのと正に対称的な描写である。逆にいえば、先行するワンピースの描写があってこそ、ヒロアカの描写が考え出された可能性もあるのかもしれない。


 つまり、ワンピースのような相対化ばかりだと悪が曖昧で不味いだろう?という次のターンの作品がヒロアカであり、鬼滅であると言えなくもない。そして、今の思想の潮流も基本的にそういう傾向にあると思うが、こうした事が今後ワンピースにも反映されるのかどうか?


 もちろん、ワンピースは未だ連載継続中であり、この「答え」にどのような結論を出すのかは作品の最後を見届けるまで待たなければならないが、話の展開からおそらく何らかのどんでん返しがあって、より相対化された話になりそうな所をどう見せていくのか?というのも見ものではある。

 

 

==以下、余談(若干のネタバレ感あるかも)

 


 カイドウが思いのほか悪として描かれたのがもしかしたらその反映かもしれない。カイドウとキングとのエピソードは若干、ルフィと合わせ鏡的な話だが、結果、カイドウは悪に至っているというルートでルフィの現在を完全には肯定していない気もする。そして、イム様の存在が後付けなのか最初から考えてたのかは、ちょっと気になる所だ。あと、モリアが何気にバギーと同様、敗者=死者を束ねる存在として、バギーと対比させられる気がする。


 
==余談2

 

 ワンピースは構造的にMCU(マーベルシネマティックユニバース)と似ている点も面白い。単体でも分かるまとまった話があって、最後にちょっとだけ次の展開をチラ見せして、全体の話を進めていく構造だ。その上で、それぞれ頂上戦争とエンドゲームという集約点を作って盛り上がりを作った所も似ている。


 映画と比較すると時系列的にはワンピースの方がだいぶ先だが、2010年代の日米最大級のヒット作が同じような構造をしているのは時代的な特徴でもあるだろう。そして、言うまでもなく、ヒロアカはワンピースにも影響を受けているかもしれないが、MCUにも多大な影響を受けている作品ではあるので、MCUについてもまた後で書く(予定)。

 

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 以上。最初なので、長くなってしまった。あとで加筆修正するかも。